「演劇夜話~今だからこそ話すべきこと」
5月25日、「新型コロナウイルス」による「緊急事態宣言」が一旦解除されたが、「終息」したわけではない。今後、第二波、第三波を受けながら、我々はこのウイルスと共存することになるのだろう。 約2か月前、「非常時」を迎えるような状態で、エンタテインメントは防疫の観点からほぼ全滅に近い状態を呈し始めた。この瞬間を、50代の批評家・中村義裕と20代の俳優・佐藤俊彦がどう感じ、何を考えるのか。 時間が「できてしまった」ことを逆手に取り、現状の演劇界についての「対話」を遺すことにした。
【第一夜】2020年3月31日
中村 この「緊急事態」に芝居の話か、という声もあると思うけれど、約40年近く芝居の評論をしていて、自分の意志ではなく一か月以上劇場に「行けない」というのは初めて遭遇する事態で、再開のめども立たない不安定な状態。
これは、恐らくすべての業種で同じだろうが、演劇人でも「演劇」という文化の継続の必要性を、マスコミを通じて述べてもいる段階。
こういう事態だからこそ、逆にいろいろなことをフラットに、俯瞰的に眺めることもできるのではないか、と。この状態を、50代の批評家と、20代の俳優が、活動すべき「現場」がない状態で何を考えるのか。また、30年以上の年齢の開きで、この現象の見方が変わるのか変わらないのか。そんなことを話そうと思う。では、対話の相手の佐藤君。
佐藤 「新型コロナウイルス」の流行で、多くの劇場で公演中止になっているじゃないですか。僕は無名の俳優ですが、大小は問わず、今まで芝居に関わらせてもらっています。でも、今の状況では、全く芝居に関われない事態がいつまで続くかわからないことに「不安」を覚えます。
僕は知名度もなく「影響力」もありません。けれど、これで止まるわけには絶対に行かないと思うんです。今日も志村けんさんが亡くなって世間に大きな衝撃を与えました。年齢層の高い方々が倒れていくのはこの病気の一つの特徴ですよね。大ベテランではない代わりに、次の時代を担って行かなければならない若い僕たちの世代に何ができるか、そのために何をすればいいのかが課題だと思っています。
中村 そこはどうなんだろう…。いささか、異論ありかな。仮に君に「知名度」や「影響力」があっても、いつ「緊急事態宣言」が出されてもおかしくない今、何かのメッセージを発信した時に、「劇場再開」が可能かどうか。「不要不急は自粛」と言われている中で、「演劇」はその最たるものだからね。相当の批判を浴びるだろうし、「影響力」云々という段階は過ぎていると思う。
むしろ、今の多様なメディアを知っている「若さ」という特権を活かして、演劇をどう生かせるのかを考える方がいいんじゃないのかな、とも思う。今の話で面白いと思ったのは、世間の人々は演劇でも映画でもライブでも、「非日常」を楽しみに足を運ぶわけだよね。でも、我々は「非日常」を創り、関わるのが「日常」で、正反対の場所にいるということ。その我々の「日常」が、先に何も見えない荒涼たる砂漠に突然放り出され、次の給水ポイントも見えない「不安感」なんではないだろうか。その中で、どうするべきなのか。
佐藤 そうなんですよね。それに直面しているのがまさに「今」だと思うんです。だからこそ、この対話が必要なんじゃないですか。
中村 そうだね。こんな経験はしたくないし、滅多にないことで、今こうして対話をしている我々も明日、どうなるかわからない。文字ができて以降、「演劇」が絶えたことはないはずなんだ、戦争などの過酷な状況でも。「本能」の部分で求め、渇望するものは何か持っているはずなんだよね。その中で抱く、この「不安」「不透明」な感覚を、リアルタイムにどう語ったのかを遺すことには意味があるんだろうね。
佐藤 僕たちの前には戦争を経験した人々がいて、戦地で芝居をしたりしたこともあったわけですよね。その後、戦争を知らない世代が「中心」になって、ギリギリの状況で芝居をする感覚が今の我々にはないとも言えます。今回、コロナにぶつかったことで「価値観」が変わり、より深く考えるきっかけになったと思うんです。
中村 芝居を観て歩くのが仕事の批評家が、一か月以上芝居を観ていないんだよね。このままだと、「劇場へ出かけてお芝居を観て、ライブ感を味わう」という一つの形式が崩壊するかもしれない。
ただ、歴史的にはギリシア悲劇も歌舞伎もはじめは「野外劇」で、技術の発達で「劇場」という建物や空間ができたわけだよ。今でも「お祭り」の多くは野外だから、「演劇」の「祝祭」という側面を考えると、仮に事態が終息した時に「劇場」での観劇というスタイルが「唯一」のような感覚ではなくなっている可能性はあるね。
佐藤 そうですね。その時に「どうするか」ですけれど、今この瞬間に、こういう事を考えている人って他にはいないんじゃないでしょうか。
中村 そうかもしれない。今の言葉で、歌舞伎の『勧進帳』の幕切れの、弁慶の引っ込みの時の「口伝」を想い出したんだよ。片方の眼では、花道を駆け上がり、厳しい山を登る義経一行を、片眼では自分の足元を見ろという。肉体的には不可能かもしれないけれど、そういう「心持ち」で花道を引っ込め、ということ。実際には、花道ではなく石ころだらけの舗装されていない道を追い駆けるんだからね。
今の話は、弁慶の引っ込みの口伝と同じで、片眼で数年先の状況を考え、片眼で今の演劇界を見ながら、新しいツールをどう利用するかを考えて、非常に増えた娯楽の中で「演劇」のボタンを押して、「やっぱり生で見たいな」と思ってもらうことを考えなくてはならないと思う。
その状況で、神社の境内とは言わないけれど、演劇の原点に立ち返って、こちらから持って出かけるという考え方も「あり」なのではないか、と思う。
佐藤 それはすごくあると思います。
中村 「古い」とか「新しい」の基準をどこに置くかで違うけれど、長い歴史のどこを切り取るかで、新しいと思ったことでも実はとっくの昔からやっていたりする。今の新しい歌舞伎の演出を観ても、それを感じることはあるからね。
今、演劇自体が「ルーティンワーク」に陥っている部分があるのではないか、とも思うんだ。「狎れ」てしまい、新しい物を創る以前の問題で揉めているケースが多くて、「とりあえず回っていればいい」という感覚に陥っている部分があるのは否定できないんじゃないかな。
こういう危機的状況だからこそ、自分の全肉体を使って表現する「演劇」を、ルーティンでやっていたら面白くないと思う。「今」じゃなければできないこと、俺と君では違うよね、年齢も環境も違うから。でも、それが「何なのか」を探すのも、この対話の大きな目的だと思う。
佐藤 こういう話は何度もしましたけれど、「リアルタイム」でこの感覚を残すことの意味は大きいですよね。
中村 今まで喋り散らかしてきた話の中に、残しておいた方がいい話題もあるからね。その意義はあるだろうし、公共放送ではないから、演劇界の事を充分に考えた上で、言っておくべきことは言っておこうという想いはある。「戦争前夜」にも似た今の状況で、どこまで続けられるかわからないけれど。次の回も、相手がいることを願って、乾杯!
佐藤 そういうことの積み重ねが古典の中で曖昧になり、危機感を持つ人がいないと、日本の文化が絶えて、歴史がつながらなくなってしまうんじゃないかと。
中村 時代の変化で形式や感覚が変わることを否定するつもりはないんだ。ただ、その「プロセス」をちゃんと知っておこう、ということだね。
佐藤 そうですね。
中村 歴史は誤解されたまま伝わることが多いからね。最近は、それが怖いね。
今日は初めてで、あちこち話題が飛んでしまった。でも、初めての話題も結構多いね。「次」があったら、何が飛び出すんだろうな。じゃあ、今日はここまで。
(了)