【コメディの魅力を語ろう】
佐藤 あまり暗い話題ばかりが続くのも、っていう感じなので、今日は「コメディの魅力」を語りませんか?
中村 いいね。芝居の世界では「泣かせるのは簡単だが、笑わせるのは難しい」と言うしね。僕は、俳優じゃないからどちらもできない。まぁ、怒らせるのは得意だけれど(笑)。俳優は「コメディ」をどう考えるのか、その辺りを語ろうということ?
佐藤 そうです。そもそも、役者が演じる「笑い」は、「お笑い芸人」の笑いとは違ってなくちゃならないと思うんです。芝居のストーリーの面白さで、真面目に演じているのに、お客さんが笑っちゃうような。相手との想いが食い違っているのに、そのままどんどん話が進んじゃう。
中村 では、「お笑い芸人」の面白さ、というのは?
佐藤 一番わかりやすいのは「一発ギャグ」みたいなものですよね。でも芝居はそうじゃないですから。ストーリー自体が面白くて笑わせる作品と、普通の芝居の中に「笑い」がある作品が混在していますよね。
そういう意味で言えば、森本薫(もりもと・かおる、1912~1946)の『華々しき一族』、普通はコメディとは思わないのかもしれませんが、若い映画監督の須貝が、自分の映画の師匠の奥さんの諏訪を好きになり、お互いに微妙な感情の食い違いを持ったまま芝居が進んでいくじゃないですか。考え方では、これも「コメディ的要素」じゃないか、と思うんです。
中村 それは面白い見方かもしれない。確かに、そういう部分があるとは言えるね。ただ、ずいぶんニッチな場面を探したね(笑)。
でも今の君の意見は、「コメディの魅力」の一つを指摘しているように思うよ。やはり、大きな要素は「すれ違い」で、君が以前、博品館劇場で出たイギリスの劇作家、レイ・クーニー(1932~)の作品を翻案した『私は、誰!?』は、まさにすれ違いの妙味だと思う。おかしな出来事でも、舞台にいる人々には大真面目な問題で、それに対する行動がどんどんすれ違って、思いもかけない方向に行ってしまう。ここに面白さが生まれるよね。加えて「間」の使い方。
「笑い」にはさまざまなグラデーションがあり、日本語でも「爆笑」「苦笑」「微笑」「泣き笑い」など、いろいろな表現があるね。我々の人生で起きる出来事を、すれ違いを強調して見せる作品の一群が「コメディ」ではないのかと思うんだ。
後は質の違いで、「上品」か「下品」かの問題もある。例えば、自分の身体を痛めつけて笑いを取ることが、「コメディ」と言えるのかどうか。ウエルメイドという、計算されよくできた芝居の中で、アドリブのように見えることまで書き込まれているような作品は「上質」だと思う。
佐藤 確かにそうですね。でも、テレビや動画サイトなどで、そういう「お笑い」を求め、楽しんでいる多くの視聴者がいるのも事実じゃないんですか? もしかして、先生は「お笑い否定派」ですか?
中村 そんな「派」があるの?(笑) そういうわけではないよ。ただ、数が多すぎるので、注意をして観る必要があるな、とは思っているけど。
佐藤 確かにそれはありますね。
中村 これは、「お笑い」と「コメディ」の線引きの難しさ、だね。
ただ、僕は「お笑い芸人」だからいけない、あるいは蔑視するという気持ちはないよ。ずいぶん前から「一発屋」という言葉が定着して、そこを目指す人々も多いよね。確かに芸能の世界で一発でも当てるのは大変なことだよね。その一方、ピンと呼ばれる一人の芸人、あるいはコンビ、トリオでも長い時間をかけて新しいネタを生み出し、磨き上げている人々もいる。
僕が言いたいのは、「一発屋」と息長く芸能の世界でやって行こうという人々を一緒にすることには抵抗がある、ということ。これは説明不足だったね。
佐藤 今、先生が言ったような息の長さを目指して頑張っている若い人々もたくさんいますし、まだ名前が出ていないけれど、凄く面白い人たちもいますよ。
中村 その点は、僕の勉強不足だね。今、君の話を聴いていて思ったのは、「一発屋」と呼ばれる人々を消耗品のように使ってしまう制作の側に問題があるのかもしれない、ということ。
佐藤 そうなると、問題は相当広がるし、根っ子は深いですね。
中村 まぁ、「コメディの魅力」とは離れてしまうが、無関係とは言えないね。
佐藤 明らかに「コメディ」と銘打っていなくても、そういう要素を持った芝居はたくさんありますよね。芝居の中で、スパイスのように「笑い」が必要な場合もあるし。そうなると、「コメディ」かどうかの線引きが難しいですよね。
中村 そうだね。演劇ではないけれど、「落語」と聞けば、多くの人は「滑稽噺」のようなものを思い浮かべるよね。でも、「人情噺」「芝居噺」「怪談噺」など、他の噺があるから、あえて笑いの要素が強いものを「滑稽噺」という。芝居で言えば、落語の「滑稽」にスポットを当てたものが「コメディ」ではないか、と。
佐藤 なるほど。あとは、俳優がそれをどう演じて笑わせるか、ですね。
中村 それは君の仕事だよ。
佐藤 そうですね。ところで、コメディに特化した俳優っているのかな…? 言い換えれば、喜劇役者、ってことですよね。久本雅美さんとか。
中村 日本で「喜劇」を考える場合、東京と大阪のルーツの違いも重要だと思うな。
佐藤 そうか! ルーツや発達が違うですね。東京だと浅草の六区だとか、そういうことですか?
中村 そうそう。大阪では、笑いを含んだ芝居に「曾我廼家(そがのや)家庭劇」という一群の芝居があって、これがのちに「松竹新喜劇」になった。他に別系統の「吉本新喜劇」もある。東京は、昭和初期にエノケン、ロッパと並び称された榎本健一(えのもと・けんいち、1904~1970)、古川ロッパ(1903~1961)が浅草で始めた「エノケン一座」や、「笑の王国」辺りに一つのルーツを求めることができるね。
もっとさかのぼれば、九州や大阪には「俄(にわか)」あるいは「仁輪加(にわか)」と書く、「即興劇」のようなものが土台としてあったからね。
今でも、大阪の街頭インタビューなんかを観ていると、普通の人でも下手なお笑い芸人よりも面白ことを言うことが多いよね。そこまで「笑いの感覚」が違うんだと思う。
佐藤 そういうことですか。同じ日本でも全然違うんですね。でも、地方公演で、確かに関東と関西のお客さんの感覚がかなり違うのを感じることはありましたね。
中村 そう。だから、「喜劇役者」の感覚も、東西では違うんじゃないかな。例えば久本雅美、藤山直美が関西勢の一角を担っているとすれば、東京勢は伊東四朗、小松政夫、三宅裕司とか。後は喜劇役者とは言わないかもしれないけれど、女優なら黒柳徹子とか。
佐藤 何となくその違いが分かる気がします。でも、すごく感覚的なもので、言葉では説明できないなぁ。黒柳さんだって、コメディ専門で来たわけではないし。そう言えば、今は「喜劇役者」とか「喜劇人」って、あまり聞かないですよね。
中村 そうだね。その中で、良質のコメディを残そうと頑張っているのは、「劇団NLT」とか「加藤健一事務所」辺りが東京では代表格ではないかな。加藤健一(1949~)が惚れ込んでいる、さっきも名前が出たレイ・クーニーの作品なんかは、実に緻密に計算された「すれ違い」と「間」の芝居なんだよね。だから面白いんだと思う。もちろん、偶発的に出る面白さもあり、それを否定はしないよ。
佐藤 「コメディ」って、深いですね。
中村 深いよ。役者が苦労すればするほど面白くなるのも、どこまで掘り下げられるか、との関係もあるのではないかな。
佐藤 あっ、そっちへ持って行くんですね(笑)。結局は、「役者は勉強しろ」ということになるんですね。
中村 先に言わないようにね(笑)。では、次回。 (了)