2月16日の朝、満88歳の誕生日を目前に、すい臓がんで稀代の名女優が逝った。初舞台から71年、宝塚の人気娘役を経て退団後は松竹の専属となり、「夫婦善哉」は言うに及ばず、日本映画の黄金期を築いた女優の一人である。
一方、舞台での活躍も幅広く、長谷川一夫の相手役として、あるいは山田五十鈴とのコンビで幾多の作品を遺しているが、私がすぐに思い出すのは、谷崎潤一郎の「細雪」の長女・鶴子と、「毒薬と老嬢」のアビィである。前者は古き良き時代の大阪・船場の旧家の長女のプライドと、それゆえの古風な女性の姿を見せ、後者では海外の喜劇をいとも軽やかに演じ、客席を大いに湧かせた。また、ここ数年の舞台では「あかね空」の料亭の女将の役が印象に残っている。
芝居のたびに楽屋を訪れると、いつも温かな笑顔で迎えてくれ、折々の芸の話に花が咲いた。どんな時でも微笑みを絶やさぬ一方で、常に背筋がピンと伸び、凛然としたたたずまいを崩さない、品格のある見事な女優だった。普段の話の中にも、女優として芸の道をひたすらに歩むことを、言わず語らずに教えてくれていたような気がしてならない。いつもお元気な秘訣は何でしょうね、と伺ったら、「あたしにはこれしかできないんですもの。料理がうまいわけじゃなし」と笑っておられたが、逆に言えば他のことに時間を割く暇などないほどに一つの道に打ち込んだからこそ、最期の最期まで一流の女優で居続けることができたのだろう。その矜持は、無言のうちにも生きる姿勢として示されていたように思う。
最期の舞台となったのは昨年の3月31日に東京国際フォーラムで催された一日限りの舞踊の会「花柳壽輔の傘寿の会」にゲストで出演したものだった。久方ぶりに娘の踊りを見せ、満員の会場がどよめいたのを憶えている。その時に、楽屋を訪れ、いつもの笑顔に接することができた。その後、夏に淡島さんの自宅へ仕事の打ち合わせに伺った。折からの暑さでいささか疲れ気味のようではあったが、機嫌良く芝居の話をし、一時間ほどお喋りをしたのがお別れになってしまった。
淡島さんが長年にわたって敬愛した名女優の杉村春子が、やはり70年間の女優人生を一度も休演することなく活躍し、命を奪われたのもこの病気だった。偶然の一致と片付ける気にもなれないが、何か因縁めいたものを感じることは否定できない。
実は、私は淡島さんにお詫びをしなくてはならないことがある。昨年の春ごろから、「朗読劇をやりましょう」という計画が進行していた。それまでに「女の一生」や「華岡青洲の妻」を朗読劇として演じていた淡島さんは、経験者ならではの視点でいろいろなアイディアや注意点を意欲的に語ってくださった。その上で、「作品選びも演出も、すべてあなたにお任せするわ。後はあなたの言う通りにします」と言ってくださった。「責任が重いぞ」と思う一方で、何とか形にしようとファイトを掻き立てていたが、私がまごついて日々の雑多な生活に追われている間に、淡島さんに病魔が取り付いてしまった。すでにいくつかの作品がかなり具体的な構成の段階まできていたので、もっと事を早く進めていれば、という後悔と自責の念は尽きない。
26日に護国寺で葬儀がある。その折に、果たせなかった約束をお詫びをしようと思っている。