山田五十鈴が95歳で長逝したのを早朝に知った。数年前から療養中と聴いてはいたし、年齢的なことを言えば大往生だとも言える。しかし、舞台を去るきっかけになったのは、ふとした怪我が元だった。
私の手元のメモによれば、最初に山田五十鈴の芝居を観たのは昭和52年の帝国劇場公演「愛染め高尾」となっている。子供心に何と豪華な女優だろうか、と思った。たっぷりした体格の故もあったが、顔の造りやその時の芝居の印象で、「豪華絢爛」というイメージを持ったのだろう。
ここでは映画の仕事には触れない。俗に、舞台で「三大女優」と言われたのが新派の初代水谷八重子、文学座の杉村春子、そして東宝の山田五十鈴だった。三者三様の芸風で、杉村春子と山田五十鈴がまだ「芸術座」と言っていた頃の現在のシアタークリエで初共演した「やどかり」は、二ヶ月公演がアッと言う間に売り切れるほどの話題になった。以降、「流れる」まで、まさに至芸のぶつかり合いが客席を愉しませてくれた。杉村春子も山田五十鈴も稀有な女優であったことは間違いない。ただ、新聞の見出しの多くが「最後の大女優」という論調の見出しで書いていたのにはいささか不満が残る。
私に言わせれば、山田五十鈴は「最後の女役者」の匂いを持った女優だった。明治に実在し、山田五十鈴自身も演じた市川粂八。当時は「女團洲(團十郎)」とも呼ばれた役者を思わせるような風情を感じさせるのは山田五十鈴が最期だっただろう。もちろん、私も女役者の実物は知らない。しかし、「こうであったろう」と観客を納得させるだけの雰囲気を身にまとっていた。雑駁な比較をすれば、杉村春子が理論的に芝居を組み立ててゆくのに対し、山田五十鈴は長年の経験による勘で芝居を組み立てているような印象を受けた。尤も、あくまでも客席からの印象による比較であり、実際のところは知らない。しかし、緻密な計算をしていても、それをあえて大雑把に見せ、楽に芝居をしているように見せる技量を持った役者であったのは確かだ。
自らの当たり役を選んで「五十鈴十種」なる芝居が決められたが、その中で最も印象に残るのは女芸人・立花家橘之助の生涯を描いた「たぬき」である。「弾くことは不可能」とまで言われた十数分の三味線の難曲を見事に弾きこなし、観客をアッと言わせたのは、十代で清元の名取という下地はあったにせよ、女優の魂だったに違いない。山田五十鈴を良く知る劇作家の榎本滋民は、劇中に寄席の高座の場面を作り、そこで山田五十鈴にたっぷりと三味線を弾かせた。嬉しそうに三味線を弾き、唄う山田五十鈴の顔と、豪華絢爛な雰囲気が今も鮮やかに残っている。一方で、川口松太郎の「しぐれ茶屋おりく」を、建て直す前の宝塚劇場で観たのも印象的だし、同じ劇場で森繁久彌が演じた「赤ひげ」で琵琶を弾いて見せたのも面白かった。
今頃は、早春に旅立った淡島千景や、森繁久彌、杉村春子、初代水谷八重子らに囲まれて、明るく芸の話に花が咲いているのだろう。
合掌