立て続けに名優の訃報を聞くのは辛いものだ。先週、淡島千景の訃に接したばかりなのに、歌舞伎の女形の中村雀右衛門が91歳で長逝した。ここ二年ばかりは高齢のゆえか体調を崩して舞台を休んではいたが、いつまでも若々しいイメージを持っていた役者であったことや、舞台へ出なくとも存在してくれている、という安心感があった。昭和の歌舞伎を背負って来た大きな役者がまた一人、逝ってしまった。

雀右衛門の舞台を観た多くの観客は、その若々しさと清楚で可憐な美貌に魅せられた。しかし、文化勲章という芸術家として最高の栄誉を手にした女形の一生は、決して順風満帆ではなく、いくつもの苦難に満ちたものであった。何度も芸談を聴く機会があったが、雀右衛門は、それらの出来事を決して「嫌な想い出」とすることはせずに、むしろ明日へ足を進める糧としていたように思う。これは簡単なことではない。しかし、「勉強」という言葉を口癖のように語る雀右衛門は、容姿だけではなくしなやかで若々しい感性を持っていた。だからこそ、幅広い年代の役者を相手役にし、長きにわたって第一線で活躍することができたのだろう。幸四郎にしても仁左衛門にしても、先代と当代の親子二代にわたり相手役を勤めて来た女形はそう多くはない。年長の相手でも、若い相手でも自在に芝居を合わせることのできる柔軟性が、若さの秘訣の一つでもあったのだろう。

「金閣寺」の雪姫、「鎌倉三代記」の時姫などの時代物の折り目正しい芝居も見事だったし、「京鹿子娘道成寺」のような舞踊の艶やかさも他の女形とは違う色気を持っていた。当たり役は数多いが、今までに約30年にわたって雀右衛門の舞台を観た中で、忘れがたい舞台がある。

1983年の1月、国立劇場公演で「直侍」が上演された。初代・尾上辰之助の片岡直次郎に、雀右衛門の三千歳という顔合わせだった。この芝居は今も人気で、冬の入谷の寮で直次郎と三千歳が情緒纏綿とした清元の調べに乗って、最後の逢瀬を楽しむシーンが見せ場である。この時の雀右衛門の三千歳が素晴らしかった。直次郎に会いたさに恋煩いになっている三千歳の元へ、危ない橋を渡りながら直次郎が会いに来る。飛び立つ想いで襖を開け、「直はん、会いとうござんしたわいなぁ」と手を取り合う。ここで、多くの女形は、襖を開けていきなり直次郎を見る。しかし、雀右衛門は、視界に入っているにもかかわらず、ほんのわずかな時間、視線をすーっと泳がせ、改めて直次郎を見て科白を言った。時間にすれば0コンマ何秒という「間」である。しかし、この視線を泳がせる間に、直次郎を待ち焦がれた三千歳の恥じらいや喜び、そうした女性の感情が込められていたような気がした。

これは、私の勘違いだったのかも知れない。しかし、その批評を読んだ雀右衛門から、達筆の巻紙の手紙が届いた。名優に私の批評が認めてもらえたことの嬉しさは忘れがたく、若造の意見を真摯に受け止め、聴こうとする謙虚な姿勢は、晩年まで変わらなかった。雀右衛門が口にする「勉強」という言葉が、雀右衛門だけのものではなく、私自身のものにもしなくてはならないと気付いたのは、ずいぶん時間が経ってからのことで、それが恥ずかしい。

アルコールを嗜みながら、食事をしながらの芸談は豊富で、戦争中の体験や映画時代の話題、女形としての再出発など広範囲に及び、どれも興味深いものだった。「回り道の多い人生だった」「私は途中からの女形ですから」という言葉を何度か聴いたが、その中に一本通っている幹は真っ直ぐに「芸道」を見つめ、上に向かって伸びて行くという姿勢は終生変わらなかったように思う。

今は、中村雀右衛門という名女形と共に生きることのできた幸福と、その喪失感が私の中に同居している。この想いは、しばらく続くのだろう。謹んで冥福を祈ると共に、多くの舞台を偲びたい。