「コント55号」で一世を風靡した坂上二郎が、76歳で逝った。かねてより病気療養中で、今年の明治座公演も降板という状態だったので、「とうとうか…」との想いがあるのは事実だ。誰の人生でもそうだが、長く生きていれば、見送る人の数も多くなるのは当然だ。私自身、30数年芝居を観ていて、今までに何人の演劇人を見送ったことだろう。観客として、だけの場合もあり、個人的なお付き合いのある場合もあった。

坂上さんとの個人的な想い出は二つ三つあるが、それはここでは語るまい。あくまでも「役者」としての姿を留めておきたい。ゴルフのプレイ中に脳梗塞で倒れた後、療養につとめて平成18年3月、下北沢の小さな劇場で「富豪と、嘘と、のぞみ」というコメディで「完全復活宣言」をした。劇場には申し訳ないが、「坂上二郎」という看板が出るほどの大きな小屋ではない。その初日のことだった。やはり、療養はしても脳梗塞であり、科白が滑らかに出るとは言い難い状態の舞台だった。元より軽いコメディであり、観客も坂上二郎の復帰をお祝いに観に来ているという雰囲気の舞台で、アットホームな雰囲気が漂うという意味では小屋の大きさは適切だったと言えるのかも知れない。

カーテンコールで観客に拍手に包まれ、舞台に戻れたことの喜びをいささか高潮気味に語った後、共演者のおかげで何とか今日はできたこと、しかし、出来が思うようではなかったので、今日の観客にはちゃんとやれるようになったらもう一度来てほしい、などと笑わせていた。無事に初日の舞台を終えた安心感も手伝ってか、カーテンコールの「ご挨拶」というよりも、観客とのおしゃべり、のような色合いがあったが、満員の劇場は笑っていた。最後に頭を下げ、観客の拍手の中、登場人物が舞台から消えても、坂上二郎一人だけが、ニコニコと笑って、みんなを見つめていた。しばらくそんな状態が続いた後、共演者が袖から出て来て、「二郎さんがいつまでもそこにいたら、お客さんが帰れないでしょうに」と、無理に袖に引っ張り込んだ。笑い声が一際高くなり、観客が帰り仕度を始めた。この時に、「あぁ、本当に誠実な人なのだな」と感じた。思ったようにできなかったことなど、わざわざ言わなくとも、その日の観客は二郎さんが元気に舞台に復帰したことだけで満足していたはずだ。それを、自分から口に出し、お客さん一人一人に詫びるように照れ笑いをしていた。あの顔は、役者としての顔ではなく、「素」だったのだ、と思う。

私は「コント55号」の全盛期のテレビを観て育った世代だ。そこからの歩みを眺めてみると、役者としては不本意な時期もあっただろうし、人知れず悩んだ時期もあったはずだ。しかし、それらのすべてを照れ笑いの下に隠し、三枚目に徹し、コンビでは萩本欽一の女房役として見事な役割を果たした。「欽ちゃんあっての二郎さん、二郎さんあっての欽ちゃん」であったことは、今更私が言うまでもないだろう。昭和9年生まれ、76歳。昭和一ケタの最後の世代だけに、昭和がどんどん遠くなる気がする。

役者は死んでも名を残す。しかし、どの役者も芸だけは一緒に持って行ってしまう。それが哀しい。