その最期があまりにも伝説的と言うか、この女優らしい、とするべきなのか判断に苦しむところだが、50歳を迎える手前でそそくさと旅立ってしまったのは、没後25年に近い今でも寂しさが募る。 続きを読む
その最期があまりにも伝説的と言うか、この女優らしい、とするべきなのか判断に苦しむところだが、50歳を迎える手前でそそくさと旅立ってしまったのは、没後25年に近い今でも寂しさが募る。 続きを読む
90歳で世を去る三ヶ月前まで歌舞伎の舞台に立ったことも特筆すべきだが、「名優」ともてはやされるようになったのが七十代も後半になってから、という半生こそ、この役者の生涯を語るものだろう。それまでの評価は、「温厚篤実ながら、科白が粘る」、「科白が聞き取りにくい」「熱演型の役者だが癖がある」など、決して好意的なものばかりではなかった。 続きを読む
⑫三木 のり平(1924~1999)
三木のり平に、「喜劇」という看板が付くのは、森繁久彌と共に一時代を築いた映画『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』での好助演が多くの人の印象に残っているからだろう。「笑い」にも幾つもの種類があり、「爆笑」「微笑」「嘲笑」「苦笑」「泣き笑い」「微苦笑」など、グラデーションを奏でている。映画で見せたのり平の笑いが「爆笑」であるとすれば、後年の舞台で見せた笑いは「微苦笑」や「泣き笑い」に近い物が印象に残っている。私には、三木のり平という役者の本領は、実はその領域にこそあったように思えてならない。
三木のり平のエピソードに、「本名が女性と間違えられたために、徴兵に取られなかった」というエピソードがある。本名は「則子」と書いて「ただし」と読む。確かに、一見すれば女性と間違えても仕方がないが、事実は召集令状が来たのが終戦の数日前だった、ということだ。召集が遅れた事情には本名の読み違いがあったのかどうか、それは定かではない。こうした、喜劇のような逸話を持つだけに、明朗なおかしみを持つ役者だ、という印象があるが、実は非常に緻密かつ繊細な頭脳の持ち主である。現在の「お笑い」と呼ばれるものの範囲があまりにも広がったために、「喜劇」や「コメディ」をどこまでと区切ることはできないが、舞台でのコメディは、誰にでも、どんな場合でも緻密な計算と繊細な演技の「間」が要求される。たとえメチャクチャな事をしているように、あるいはいい加減な事をしているように見えても、その裏には緻密な計算があってしかるべきだ。それを観客に悟らせることなく笑わせることができてこそ「一流」と言えよう。
まだ宝塚劇場で今のように年間12か月宝塚歌劇団の芝居が打てる状況ではなかった昭和50年代、年間半年近くは東宝主催のいわゆる「商業演劇」の舞台で幕が開けられていた。森繁久彌、山田五十鈴、浜木綿子、八千草薫などの看板役者の座長公演で、ショーは付かない「一本芝居」だった。昭和55年9月、森繁久彌、赤木春恵、三木のり平らの一座で『機関士ナポレオンの退職』という芝居が上演された。座長は森繁久彌で、三木のり平の役どころは森繁の部下の気の弱い機関士、という一連のシリーズ映画を想起させるものだったが、見せた芝居には「爆笑」ではなく、「哀歓」が込められ、時として主役を凌駕するような部分を見せた。ここに、役者・三木のり平の本領があると私は感じた。 続きを読む
10代で映画スターとして名を馳せ、80過ぎに体調を崩すまで第一線での活躍を続けた山田五十鈴は、体調を崩してからの療養期間が長かったためか、ずいぶん前の人のような印象を受ける方もいるかもしれない。最後になった舞台は、平成13年にサントリーホールで行われた『櫻の園』の朗読で、市村正親や高嶋政伸など、贅沢なメンバーに囲まれて、ロシアの貴婦人の役を読んだ。その後、11年以上にわたって姿を見せぬまま、不帰の人となったからだ。 続きを読む
昭和を代表する「弁慶役者」というだけではなく、父・七世、当代の九代目と親子三代にわたって『勧進帳』の弁慶を当たり役にした骨太な芝居の役者だった。「弁慶役者」の他にも、『仮名手本忠臣蔵』の大星由良之助、晩年に演じた『元禄忠臣蔵』の大石内蔵助も同様の感覚を観客に与えた、「忠臣蔵役者」でもあった。 続きを読む
「じゃがいものような顔の名優」とは甚だ失礼な表現だが、無精ひげの生えた顔を撫で回しながら、「うーん」と言って芝居の話をしている顔が真っ先に目に浮かぶ。
これは、私が大学生の頃、夜学へ通う前に今も健在な日本橋・三越劇場でアルバイトをしていた頃の話だ。1980年辺りだろうか。当時の三越劇場は、ほぼ年間を通して演劇作品の上演があり、自主制作もあれば提携公演もあった。「新劇の老舗」と言われる文学座、俳優座、劇団民藝はそれぞれ8月、6月、12月と決まっており、民藝は毎年暮れの公演だった。 続きを読む
70年間に及ぶ女優人生の中で、休演したのは死に至る病を得た最期の数か月だけだったというだけでも、この女優の凄まじいまでの生き方が判る。杉村春子という、昭和を代表する女優に関してはすでに多くの書物が書かれており、ことさら私が自慢げに何かを述べる事もないだろう。 続きを読む
昭和の歌舞伎の歴史を語る上で、絶対に避けて通ることのできない女形である。若かりし頃の美貌、芸の奥行の深さ、いずれも稀代の女形であったことは論を俟たない。幼少時より股関節に障害があったこと、また晩年の数年間は骨折などの怪我や体調不良で舞台にほとんど立たなかったこともあるが、あの華奢な身体で遺した仕事の数は膨大である。
生涯を通して特筆して語るべきことは、父・五世歌右衛門に続いて、女形ながら昭和の中期から後期にかけての歌舞伎界での「覇権」を手中にしたことだろう。当時、史上最年少での芸術院会員、文化勲章の受賞など、位人臣を極めたという言葉がふさわしいが、これには当然周囲を納得させるだけの技芸が伴わなくてはならない。 続きを読む
2015年の夏、スポーツジムのサウナで急逝、の報が飛び込んできた時には驚いたが、享年86歳という年齢を知ってさらにびっくりした。いつも元気で快活なイメージの役者であり、80代も後半に差し掛かっていたとは…、というのが本音だ。しかし、芸歴を考えれば当然のことで、いつまでも磊落に元気でいてほしかったからそう思ったのだ。 続きを読む
のっけから不躾な話だが、あれほど綺麗な遺体は、後にも先にも淡島千景だけだった。まさに「眠るが如く」居間に横たわった彼女は、多くの胡蝶蘭に囲まれ、楽屋でひと時の休息をしているかのようだった。今にも起き出して、「舞台だから支度を…」と言い出しても全くおかしくはなかった。満88歳のお祝いを迎える8日前に、73年に及ぶ女優人生の幕を閉じた。映画でも舞台でも主演女優として評価の高い作品を残したのは、山田五十鈴、淡島千景が双璧ではないか、と私は考えている。杉村春子は、本数では相当の映画に出ているものの、主役と明らかに言えるのは最晩年の『午後の遺言状』を待たねばならない。しかし、彼女は宝塚時代に娘役として人気を馳せ、映画に転身後は『てんわわんや』、『日本橋』など毛色の違う作品でも見事な魅力を見せた。それに加えて、森繁久彌の出世作となった『夫婦善哉』以降は、森繁主演の『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』など、役者としての抽斗の多さを見せた。 続きを読む
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