先年58歳の若さで亡くなった子息の十八世もそうだったが、「良くも悪くも勘三郎」という役者だった。「何をやっても同じ」、という意味ではない。しかし、どこかに他の役者には真似のできない何かがあり、面白いことにそれは親子といえども違っていた。親子二代の勘三郎を想う時に、頭に浮かぶのは「役者子供」という愛すべき言葉だ。特に、この十七世にとっては、総理大臣が変わろうが、株の相場が下がろうが関係なく、「自分が次の芝居で何をやるか」の方が大切だったのではないか、と思う。これは、もちろん批判ではなく、他の人にはできない真似である。ただ、今はこうした愛すべき個性が、芝居の世界でも通用しなくなってしまった。思う存分わがままを発揮し、「役者子供」として生涯を全うできた勘三郎は幸福な役者だ。 続きを読む
「日本のおかあさん」とお茶の間で親しまれ、舞台では作家の林芙美子の半生を描いた『放浪記』を90歳に至るまで実に2017回演じる、という金字塔を打ち立てた森光子。晩年に至っての元気ぶりには誰もが驚くところで、毎日スクワットを150回繰り返し、ジャニーズ事務所の若い俳優やタレントとの交流も若々しさの秘訣だった。国民栄誉賞、文化勲章と女優としても最高の栄誉を極め、スターになるのが遅かった分を一気に取り戻すかのような仕事ぶりで、舞台やドラマ、映画は言うに及ばず、志村けんとのコントでコメディの才能をも見せる多彩な女優だった。 続きを読む
「伝説」が多すぎる、とも言える役者で、改めて私が何ごとかを書くまでもないのかもしれない。日本中を一大ブームに巻き込んだミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』を900回、津々浦々で上演した功績も大きいし、『社長シリーズ』や『駅前シリーズ』などの喜劇映画で、日本の怪しいオヤジを演じさせたら天下一品だった。『知床旅情』のように歌も歌えば詩も吟ずる。マルチタレントの走り、と言うべき存在かもしれない。 続きを読む
四世 中村雀右衛門(1920~2012)
初回は、今月の歌舞伎座で幕を開ける「五代目 中村雀右衛門襲名披露興行」にちなみ、先代の中村雀右衛門からスタートすることにしよう。 続きを読む
本格時代劇の楽しみ『薄桜記』
間もなく国立劇場小劇場で幕を開ける劇団前進座の『薄桜記』。五味康祐の原作を舞台化したもので、嵐芳三郎が主役の丹下典膳に挑んでいる。2月の大阪で初演の幕を開け、9月の名古屋公演を経て東京での初上演だ。その意気込みを、本拠地の吉祥寺・前進座で聴いた。
中村 本格的な時代劇ですね。
嵐 そうなんです。五味康祐先生の原作で、以前、勝新太郎さんと市川雷蔵さんで映画化され、2012年にNHKで山本耕史さんでドラマ化されました。その時に、「これは前進座に合う作品なのでは…」と、脚本をジェームス三木先生にお願いしたんです。
中村 ジェームス三木さんの作品は劇団では初めてではないですよね。
嵐 はい。『煙が目にしみる』とう作品依頼、今度で四作目になります。ジェームス三木先生に舞台化をお願いしたところ、「最近の時代劇はレベルが低くなって来ているが、前進座ならキチンとしてくれるだろう」とご快諾いただき、演出も引き受けてくださいました。
中村 芳三郎さん、長い付き合いなんだし、堅苦しい言い方はよしましょうよ(笑)。 続きを読む
NHKの正午のニュースを見ていたら、山口淑子(李香蘭)さんの訃報が入った。94歳、心不全で、ここ数年は体調が優れずに入退院を繰り返していたという。女優としての活躍は戦前のことであり、戦後はテレビのワイドショーの司会、そして参議院議員・山口淑子として名を馳せたが、戦争が終わるまでの李香蘭時代の活躍ぶりは、その類稀な運命も含めて、他の女優と比べようがない。
もう20年近くも前のことになる。夜、自宅の電話がなった。きっぱりした声で、「山口淑子でございます」と名乗った。瞬間的に「李香蘭がなぜ、私に?」と思ったが、電話の前で直立不動で話を聴いた。
「今、上野でニューヨーク近代美術館(「MOMA」)の展示をしています。その中に、ブランクーシの『空間の鳥』という作品が出ています。芸術に関わる貴方なら、あの作品を観て何かを感じられるでしょう。切符はお持ちですか? なければすぐにお送りします」といった内容だった。
恥ずかしいことに、私はブランクーシなる現代美術の大家のことを知らなかった。山口淑子の最初の夫である彫刻家のイサム・ノグチがブランクーシの助手をつとめていたのを知ったのは、後の話だ。
それから数日後、取る物も取りあえず、上野の展覧会に出かけた。名だたる作品が多く展示されていたが、目当てはブランクーシの『空間の鳥』ただ一点。銀光に輝く剃刀の刃のように、辺りの空間を切り裂くようにすっくと立つ作品は、李香蘭の姿勢を正した姿にも重なった。その感想を認めた手紙を送り、本をいただく、などのお付き合いが数回続いた。
言うまでもなく、『夜来香』、『蘇州夜曲』、『支那の夜』などの昭和の名曲の歌い手であり、満映(満洲映画)の大スターとして、多くの作品を残しているが、その当時のエキゾチックとも言える美しさは、貴婦人の令嬢のようでもあり、しなやかな勁さを持った美貌でもあった。年を重ねても、その美貌と品の良さを失うことはなく、劇団四季がその劇的な半生を『李香蘭』としてミュージカル化した折の初日に見かけた姿は、「残んの色香」をとどめた香気が漂っていた。
「天に花 地に星 人に愛」。戦争に巻き込まれ、当時の国策に利用された挙句に死刑判決まで受け、人には言えない辛酸の日々を送った彼女が、たどりついた境地を記したのだろうか。日付はないが、山口淑子の流麗な文字が認められた色紙が手元に残っている。激動の人生を送った後は、密やかに暮らすことを望んでおられたのだろう。私の耳には、あの夜の電話の声がはっきりと残っている。
実は、昨年の暮れから、「『李香蘭』のことを歌芝居にしましょう」という話を進めている。年齢からしても近況からしても、ご覧いただくことは叶わなかっただろう。しかし、凛然とした佇まいを見せていた『空間の鳥』が飛び立ちざまに「あなたのお好きなようになさいなさい」と声なき声を掛けてくださったような気がしてならない。
謹んでご冥福をお祈りする。 合掌
私が最期の團十郎の舞台を観たのは、昨年十月の新橋演舞場の「七代目松本幸四郎追遠」の舞台で昼夜にわたり、従兄弟の松本幸四郎と演じた『勧進帳』だった。千秋楽間近のある一日に昼夜を観たが、昼が團十郎の弁慶に幸四郎の富樫、夜は幸四郎の弁慶に團十郎の富樫、義経はどちらも藤十郎という顔ぶれだった。團十郎は、風邪気味ったのか喉を悪くしたのか、発声がいかにも苦しそうで、弁慶と富樫との問答などは聞いていて気の毒なほどであった。役は違えど『勧進帳』という大曲を昼夜二回演じるのは、並々ならぬ気力と体力を必要とする。幸四郎も團十郎も、『勧進帳』には愛着一入ならぬものがあり、体調不良は感じさせながらも、幸四郎に一歩も譲らぬ気迫が感じられた。
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今年はベテランの訃報が相次ぎ、生老病死をことに強く感じている。私が、大滝秀治という役者を初めて意識したのは、舞台ではなくテレビだった。1975年に放送された東芝日曜劇場で八千草薫と共演した「うちのホンカン」というドラマだった。倉本聰が非常に良い仕事を残していた時期の代表作でもある。北海道の片田舎の駐在所に赴任してきた融通の利かない、しかし心の温かな警察官の役が印象的で、好評を博した。もう40年近く前の話で、詳細は覚えていないが、当時から今のような風貌だったような気がする。若い頃から老け役を演じる機会が多かったせいだろう。
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山田五十鈴が95歳で長逝したのを早朝に知った。数年前から療養中と聴いてはいたし、年齢的なことを言えば大往生だとも言える。しかし、舞台を去るきっかけになったのは、ふとした怪我が元だった。
私の手元のメモによれば、最初に山田五十鈴の芝居を観たのは昭和52年の帝国劇場公演「愛染め高尾」となっている。子供心に何と豪華な女優だろうか、と思った。たっぷりした体格の故もあったが、顔の造りやその時の芝居の印象で、「豪華絢爛」というイメージを持ったのだろう。
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幻想・耽美の世界で一つの分野を確立した赤江瀑氏の訃報が入ったのは、京都の南座で玉三郎公演を観た直後だった。今年は、中村雀右衛門、淡島千景をはじめ、名優の訃報が多く、さらに、自分が物書きとして影響を受けて来た作家の急逝は、想いもよらぬショックを与えた。
赤江瀑という作家は、世間的には売れっ子作家とは言えない。しかし、ごく一部の熱烈なファンが、その「美毒」とも呼ぶべき独自の世界に魅了され、惑溺していたのは事実だ。更に言えば、赤江瀑の「美毒」の影響を、少なからぬ同業の作家が受けていることだ。これは稀なケースとも言える。「玄人好み」という言い方は、上から物を観るようでしたくはないが、いわゆる一般受けのする作風ではなかった。
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