世を挙げての落語ブームである。古典芸能がこうして何十年かに一度のブームで今まで命脈を保ってきた、その底力は凄いものだ。こうしてブームが起きると、「迷人」が続出し、「毒演会」が盛んになる。しかし、玉石混交でなければブームなど起きないのだから、そこに目くじらを立てるつもりはない。自分の好みに合うのは誰か、は、観客が自分の眼と耳で判断すれば良いだけの話だ。
ブームが起きると、便乗していろいろなものが商売になる。これも当然のことで、こうしたチャンスに、今まで眠っていた貴重なものが日の目を見る可能性もあり、市場が活性化するのは良いことだ。また、今まで落語に縁も興味もなかった人々が、わが国が誇る話芸に関心を持ってくれるツールが増えるのも悪い話ではない。しかし、歴史と見識を持った大きな出版社がそれに乗じて荒っぽい仕事をしてはいけないだろう。
小学館が、CD付きのムック「昭和の落語名人 決定版」なるシリーズを発行している。タイトル通り、志ん生、文楽、円生をはじめとして、昭和の落語黄金期を創った噺家たちのCDが付いているのは、落語ファンには嬉しいことだ。しかし、その中の何席かの噺を聴いて、その出来の悪さにがっかりした。噺家が悪いのではない、収録されている噺の出来が悪いのだ。もしも、本人が生きていたら、絶対にCD化することなど許さなかったであろうほどにまずい。これは問題である。
何が問題なのか。ちっとも夏の暑さを感じさせない「船徳」を聴き、「ああ、これが名人桂文楽の『船徳』か」と想い、噺がもたついてしまう林家正蔵(彦六)の「中村仲蔵」を聴き、「これがあの有名な『中村仲蔵』か」と想われることが問題なのだ。今はこの二人を例に挙げたが、油が乗り切っている頃の二人の同じ噺を聴くと、天と地ほども出来が違う。いかに名人上手と言え、その時々によって噺に出来不出来があるのは当たり前のことだ。その中で、「これぞ」というものを選りすぐって聴かせるのであればまだ納得もする。しかし、そうしたものの多くはすでに何らかの形で発売されている。その中で新機軸を打ち出そうとすれば「初出音源!」などと銘打って世に出すしか方法がないのだろう。
考えてみれば、今まで商品化されなかったということは、その商品価値が決して満足のゆくものではない、という判断がどこかにあったからだ。それは「これは、あとに残す噺じゃありません」という噺家の矜持だろう。名人であればあるほど自分の芸には厳しく、ハードルは高い。そのルールを無視して、むやみやたらに「これが名人の落語です」という売り方をされたのでは、お墓の中で苦情が言えない本人たちが気の毒である。「俺の芸はあんなものじゃない!」と切歯扼腕している噺家が何人もいることだろう。もちろん、出版社側は遺族や関係者を通じて権利関係は処理しているだろうが、そこには本人の意思はない。
有名な作家が没後、「未発表の原稿発見!」というニュースとともに、それが出版されることがある。しかし、未発表だった理由の中には、本人がその作品を世に問うことを潔しとせずに「没」にした原稿も数多いはずだ。いかに高名な作家であれ、没原稿がないわけはない。それを捨てずにたまたま残っていたものが「幻の名作!」と売りに出されるようなものだ。どこの世界に没原稿を売りに出されて喜ぶ作家がいるものか。
せっかく落語のブームが起きている。落語の世界に住む人々の魅力の一つは、おっちょこちょいや間抜けはたくさんいても、根っからの悪人は出て来ないことだ。その落語を扱う人々が落語のイメージを汚してしまっては何にもならないだろう。小学館とて商売だ、道楽で本を出しているわけではない。しかし、売れれば何でもいい、という同業他社の姿勢が、日本の出版や文化を駄目にしてきた一つの要因であることを、そろそろ認める時期ではないのだろうか。