今年はベテランの訃報が相次ぎ、生老病死をことに強く感じている。私が、大滝秀治という役者を初めて意識したのは、舞台ではなくテレビだった。1975年に放送された東芝日曜劇場で八千草薫と共演した「うちのホンカン」というドラマだった。倉本聰が非常に良い仕事を残していた時期の代表作でもある。北海道の片田舎の駐在所に赴任してきた融通の利かない、しかし心の温かな警察官の役が印象的で、好評を博した。もう40年近く前の話で、詳細は覚えていないが、当時から今のような風貌だったような気がする。若い頃から老け役を演じる機会が多かったせいだろう。
舞台で印象に残っているのは、1987年の12月に三越劇場で演じた「御柱」だ。有島武郎の一幕物で、江戸末期の下総を舞台にした芝居で見せた大滝秀治の「不器用なまでに頑固な存在感」が記憶に残っている。この公演は一幕物の三本立てで、瀧澤修の「息子」、宇野重吉の「馬鹿一の夢」、そして「御柱」だった。この舞台で、大滝秀治は憧れの師・二人と共に、堂々と一本の芝居の主役を演じた。それだけではなく、この公演の千秋楽後、年が明けて間もなく宇野重吉が亡くなるという、別れの舞台でもあった。
晩年の舞台では、闊達な芸風で自在の境地を見せたが、2006年に同じ三越劇場で演じた「喜劇の殿さん」が最も印象に残っている。実在の人物で、「喜劇王」とも呼ばれ一時代を築いた古川ロッパを演じた。小幡欣治が民藝に何本も書き下ろした新作の一本で、喜劇王の悲哀と苦衷を見事に演じた。「役者は忘れられたら終わりなんだ!」という意味の科白を吐いた時の大滝秀治の迫力は、同じ役者として深く理解できる感情だったのではないだろうか。喜劇王の名には相応しくない不遇な晩年を過ごした古川ロッパの姿を冷徹なまでの鋭さで描き切った脚本を見事に演じた。好演だった。
役者には若いうちに売れてしまう人と、晩年になってから大きな花を咲かせるタイプに別れる。もちろん、単純に二通りしかないわけではないが、大滝秀治は明らかに後者だ。何かのインタビューで、「役者の仕事だけでどうやらこうやら食えるようになったのは50を過ぎてからだ」と語っていたのを読んだことがある。その間、密やかに心のうちに激しい演劇に対する情熱の炎を燃やしていたのだろう。87歳で亡くなる前年まで舞台に立ち、今年は映画にも出演し、役者の理想である「生涯現役」を貫いたのは見事なものだ。
瀧澤修の役を引き継いだ「巨匠」や、先ほどの「喜劇の殿さん」、「浅草物語」、最期の舞台になった「帰還」など、晩年は主役としての堂々たる芝居を見せたが、大滝秀治は基本的には脇で光る役者だったと私は考える。「主役級」ではないからその分格下だ、という見当違いの誤解は困る。見事な脇役がいてこそ、主役の芝居が光るのだ。それが、年功を積むと同時に、主役と脇役の間を作品によって行ったり来たりするようになった。いわば、「自在の芸境」に達したのだ、と言えるが、これは大変なことだ。主役に向くか、脇役に向くかはその役者の価値ではなく、芸の性質の問題だ。両生類のようにどちらもこなす事ができる役者は、そう多くはない。同時に、役者として名を挙げるまでの苦労は、今の若い演劇人の想像の及ぶところではないだろう。その風雪を乗り越えて、晩年見せた柔和な笑顔があり、好々爺の一面がある。
しかし、大滝秀治の本質は、外見の柔和さとは裏腹の「硬骨漢」ではなかったろうか。
冥福を祈る。